今回は飛騨地域出身のドキュメンタリー映画監督、宮崎政記さんにお話を聞きました。宮崎さんは現在の下呂市小坂町で生まれ、高校を卒業後東京の企業に就職、ドキュメンタリー映像を作成する部門で働いていました。親と暮らすために2002年に高山市にUターン。高山市で「ドキュメンタリー映画を上映する会」を立ち上げ、現在はドキュメンタリー映画の上映や自主制作をしています。
なぜドキュメンタリー映画の自主制作に至ったのか、どういった気持ちで活動されているのか、心境を伺いました!
―飛騨地域Uターンまでの経緯をお聞きしてもいいですか。
私は今の下呂市小坂町で生まれ、中学の時に高山市へ引っ越してきました。昔から木こりになりたくて、高校では林業について勉強しました。ですが、高校3年生の時に企業で映画を作る、という求人情報を見た瞬間気持ちが変わり、映像作成の仕事につきました。東京で様々なドキュメンタリー映像に携わりましたが、親と暮らすため、2002年に高山市へ戻ってきました。
―高山市でドキュメンタリー映像を作れる仕事はなかなかないと思うのですが、仕事を辞める怖さはなかったのですか?
無かったですね。自分にとってドキュメンタリー映像を作成することよりも親と生活することが何より大切だったので。当時から「映像制作」というと花形の職業ですけど、全く躊躇なくUターンを決めました。
―長く飛騨地域を離れていましたが、帰ってきた時に高山市に変化を感じましたか?
街は大分変わったと思いました。昔は今ほど観光地化されていなかったし、建物の雰囲気も大きく変わりましたね。東京にいた頃も年に数回帰ってきていましたが、住んでみて改めてびっくりしました。ですが、人の感じは昔から変わらないですね。Uターンして、近所や親戚の人と話していて改めて「ああ、帰ってきたんだな」と実感しました。
―「ドキュメンタリー映画を上映する会」の代表をされていますが、立上げの経緯についてお聞かせください!
親と暮らすためにすべてを捨てて高山へ帰ってきましたが、やはりドキュメンタリー映画を作成することは自分の人生においてとても大きな部分を占めていて、高山に帰ってきて数年間心に穴が空いた感じがしていました。親との生活が落ち着いた段階で、東京にいる時自分が作っていたドキュメンタリー映画を上映してみようと思い、2006年に立ち上げたのが「ドキュメンタリー映画を上映する会」です。結局上映だけでは心の穴は埋まらず、数年後にはまた作成を始めましたが。だから、「上映する会」といいつつも「つくる会」になっているのが現状です。仕事として始めてしまうと、どうしても撮影コストや数字に気が向いてしまい、自分が作りたいものから遠ざかってしまうので、完全に趣味で作っています。
―「ドキュメンタリー映画を上映する会」の団体情報をお聞きしても良いですか?
メンバーは現在10名程度、上映会などのイベントで興味を持って声をかけてくれる方もいますが、完全に「自分がやりたい」という目的で立ち上げた団体なので、メンバーは自分自身が集めた同級生・友人ばかりです。一緒に映画を作りたくて参加しているというよりは僕がやりたいことを応援してくれて、助けてくれるといった立ち位置の人たちです。
現在作成中の映画は一年をかけて一人を追っています。撮影は月に3~4回ほどです。やはり一本仕上げるのに長く時間がかかるので、上映などの特別なイベントは数年に一回程度です。イベントといっても、街の交流館や文化会館で上映する時には委託になることも多いので、自分自身でイベントを行うことは最近はとても少ないです。ですので、「上映する会」というよりは「映画を作る会」といった感じです。私自身自分も今作っているもの一つ一つに夢中で、過去の自分の作品はもう終わったもの、という認識ですし。
―ドキュメンタリー映画を作成している中で特に印象的な出会いはありましたか?
今追っている木こりの方との出会いはとても大切なものだったと感じています。今のモデルに決まるまで、アルバイトに行きながらモデルになりそうな人はいないかと探していました。参考の撮影のために現場見学へ行った時、とある事故が起きたんです。木こりなので、もちろん木を切るお仕事なんですけど、モデルの方に切った木が倒れてきて下敷きになってしまったことがあって。その時は参考のために写真を撮っていたから、集中力が分散して事故になったんだという非難も浴びましたし、モデルにしてはいけないんだとも思いました。ですが、その木こりの方は現場に復帰されて。こんなにも危険が伴う仕事であるにも関わらず、木こりを続けたいという思いのドラマ性にとても魅かれました。とても印象的な出会いと出来事でしたね。
レストカフェ ギャラリー&ライブハウス
サンアート高山
住所:高山市花里町6-51-1
電話:0577‐35‐0536
メール:sunart.takayama@gmail.com
―サンアート高山さんのことはどのような経緯で知ったのですか?
近くで飲み会があって、それまで時間を潰すためにふらっと入ったのがきっかけです。カフェとして通うようになってから、イベントとして利用できるということも知り、2014年には一度上映会もしました。そこでは、こだまーれという高山市の文化芸術祭の時に記録として撮影した、春慶塗の職人のドキュメンタリーを上映しました。
サンアート高山さんの他のイベントやサークルに参加することもないですね。歌のイベントで演歌があれば聴きに来ようかなと思っていますが(笑)イベントに参加したり色々な人と交流したりするというよりは、オーナーさんと気が合うから顔を見に通っているという気持ちが強いです。
―これからの活動目標や予定を教えてください!
ひとまずの目標は今撮っている映画の完成です。現段階で3分の2程はできていて、実は2020年の冬には公開イベントのスケジュールも組んでいます。
前回の作品「ここに居るさ」の完成上映の時にとある記者と「高山を舞台にした作品を3つ作る」と約束してしまったので、前作と今作っている作品、後もう一作は作らないと(笑)
ドキュメンタリー映画を作成することは自分の生きがいではあるんですが、「趣味」と言われると少し違う感じがしていて。自分にとってドキュメンタリー映画は家族のようなもので、仕事も生活も全てを捨てて高山へ戻ってきて、一緒に暮らしていた母との別れもあって。全てが落ち着いたあと、自分に残っていたものが「ドキュメンタリー映画」だったんです。
ドキュメンタリー映画を作ることで自分の生き方を見つめ直すこともできますし、これからも自分の持っている技術で自分らしい「表現」をしていきたいと思っています。
―自分がしたいことは何か、自分にできる表現は何か、それを改めて考えた上での「自分は映画で表現するしかない」、とても芯のある強い言葉ですね。宮崎さんのように自分のやりたいことを思い切りやる生活はとても憧れますし、素敵だと感じました。作成中の作品がどのように仕上がるのか、今後どのような映像を撮っていくのか、とても楽しみですね!
2020年12月6日 高山市民文化会館 小ホールにて 新作上映予定
インターン生 都竹清花さんが手がけたインタビュー記事
都竹清花